失われた玉縄のランドマーク北条早雲の祈り玉縄城の再発見

鎌倉の城 玉縄城 北条早雲の祈り





 鎌倉再興の象徴 鶴岡八幡宮の回廊模型
 鶴岡文庫所蔵

早雲の祈り、私たちの願い

1512年8月、北条早雲(伊勢宗瑞)は、鶴岡八幡宮に祈り、 荒廃した鎌倉と八幡宮の再興を誓ってこう詠いました。

枯るる樹に又花の木を植え添えてもとの都に成してこそみめ

その年の10月、北条早雲は玉縄城を築きました。
この鎌倉の城は、後北条氏が三浦半島から関東一帯を攻略するだけで はなく、八幡宮と鎌倉の地を復興させ、民の為の国づくりを願って玉縄 の龍脈の中心に築かれた素晴らしく堅固な山城でした。

玉縄城址まちづくり会議は、今は忘れられ、辛うじて僅かな遺構とし て残る玉縄城址に光りをあて、早雲の祈りが生み出した玉縄城の素晴らしさを再発見し、改めて 玉縄のランドマークとして再生させたい、それをあたらしい玉縄のまち づくりに活かしたいと、活動をしています。

<玉縄城の祖、北条早雲>(1456〜1519)
北条早雲(伊勢宗瑞)は、永正9年(1512)三浦半島攻略の拠点となる玉縄城を築城し、玉縄城の城主に次男氏時を据えました。 そして同年8月、早雲は三浦道寸の岡崎城(平塚市岡崎)を急襲。その猛攻を道寸は支えきれずに、 住吉城(逗子市小坪)へさらに新井城へ(三崎町小網代)と逃げますが戦上手の早雲はここで深追いをせず攻撃を一時やめ、 鎌倉に入り、鶴岡八幡宮の神前に戦勝を祈るとともに、荒れ果てた社殿の復興を誓って和歌を奉納します。

それが「枯るる樹に又花の木を植え添えてもとの都に成してこそみめ」です。永正9年8月13日のことでした。 そして早雲は永正13年(1516)ついに相模の最大勢力だった三浦道寸、義意父子を新井城に攻め滅ぼします。
これによって後北条氏は、相模、三浦を制し、関東全域の経略を開始します。 しかし早雲は、その3年後の永正16年(1519)8月15日、 伊豆韮山城にて永眠しました。享年64歳(88歳説もある)遺言によって箱根早雲寺に葬られました。

日本の民主主義の草分けは北条早雲

早雲の座右の銘は「祿壽報恩」です。
農民を特に優遇する「四公六民」の年貢政策を取りました。 早雲の理想とするところは「民と一緒に国づくり」にありました。
当会のアカデミア#14講演会の打上げの席で、小和田哲男、伊藤一美、伊東潤の三氏との間に熱い熱い激論が ありました。その末に、三者の意見が一致したのは、「早雲こそ日本民主主義の草分けだった! (それを300年遅らせたのは信長だ!)」ということでした・・・。 。

先達ては、会員kの、歴史小説家の伊東潤さんが、“民のための秩序を希求し、 関東の地に覇権を打立てた北条早雲の生涯を描く”近著「黎明に起つ」をNHK出版から刊行しました。

その解説にも、伊東さんはこう書いています。
「祿壽報恩」は早雲と氏綱が領国の民に向かって、いかなる施政方針で臨むかを宣言したものです。 つまり、現代の民主主義社会で望まれる為政者像の原型こそ、早雲にあるのです 。それは、「天下布武」という印判を使った信長とは、真逆の政治理念でした。」

小田原加藤市長とのネットワーク

その後、当会は小田原市の加藤市長と後北条ネットワークを形成し、密接な協力関係を築いています。
玉縄城築城500年祭へ招聘し、鎌倉松尾市長と加藤市長を玉縄城址の探索案内を行いました。 今年5月の小田原北條五代祭りに当会が鎌倉市代表として招かれ、玉縄城初代北条氏時隊の隊列を組み、 パレードしました。
北条早雲をテーマとするNHK大河ドラマへの働きかけにも協力しています。(当会の会員、歴史小説家の 伊東潤さんは、北条早雲を主人公にNHK出版から「黎明に立つ」を刊行しました。)
<玉縄城初代城主、北条氏時>(1489〜1531)と里見の乱
北条早雲の次男、小田原二代氏綱の弟、左馬助氏時は、築城されたばかりの玉縄城の初代城主と なり、ここに玉縄北条氏が成立しました。

氏時は、父の早雲と新井城を攻め、三浦道寸父子を滅ぼ し、父の死後は小田原本家の兄氏綱と組み、玉縄城主として相模、三浦、鎌倉の盟主になります。

玉縄城初代城主となった氏時の最初の試練は里見の乱でした。大永6年(1526)12月、 安房の里見左衛門尉実尭が海を渡り、三浦の浜から鎌倉に乱入し、鶴岡八幡宮を焼き、寺院を荒し、 民家に火を放つなど狼藉を働きます。さらには戸部川(柏尾川)を渡って玉縄城下に迫りました。

これに対し大船の甘糟氏や渡内の福原氏など土着の武士が、玉縄城主氏時に協力して応戦、激しい戦闘の後、 ついに撃退します。このとき戦死した甘糟氏をはじめ味方の35首級を取戻して葬り、塚をつくって榎を植えた、 これが「首塚」です。(首塚祭りは毎年8月19日)

*氏時の資料はほとんど残っていないが二伝寺の位牌によると享祿4年1531没。 大虚院殿了翁宗達大禅定門とある。
<玉縄城二代城主、北条為昌>(1520〜1542)
小田原の北條氏綱の三男為昌が玉縄城の二代城主につきました。
このとき12歳(幼名、彦九郎)。そしてこの少年城主の補佐役についたのが後に為昌の養子になり、 そして玉縄城の三代城主になる北条綱成です。

為昌、綱成は、父であり祖父となる氏綱と共に、 川越城の扇谷上杉氏を攻略し陥落させます。一時期、為昌は河越城主に、綱成は城代になりますが 、後に城主は大道寺盛昌に替り、二人とも玉縄城に戻って、城主として広大な玉縄領の経営にあたります。
この為昌は23歳で死去しました。*小田原直系の氏時、為昌。綱成からは別系統になります。
<玉縄城三代城主、北条綱成>(1515〜1587)
・玉縄城主で勇猛不敗の名将と称えられたのが、黄八幡で有名な北条綱成です。 ・黄八幡を掲げて戦った綱成は、生涯一度も敗れたことはなかったと言われています。

玉縄城三代城主、北条綱成は、遠州土方の城主であった福島正成の子(黒田基樹氏に異論もある)。
二代小田原城主、北条氏綱に養育された青年武将の綱成は、合戦のたびに手柄をたてます。 生まれながら武道の志高く、戦場には朽ち葉色の旗に「八幡」と墨書して差し物としていました。 合戦になるとこれを振って真っ先に進んだところから、世の人はこの綱成の姿を「地黄八幡」と呼び称えました。

綱成は、後に二代城主為昌の養子となり、天文11年(1542)為昌の死去に伴い、玉縄城の後継者三代城主になります。 天文15年(1546)の河越の合戦では、河越城を守っていた綱成が大活躍し、北条氏の武蔵進出に道を開きました。

綱成は、玉縄衆を率いて玉縄一帯を治めると同時に、小田原北条氏の軍事力の中心として、常にその先陣を務め、 前線防衛の任を果しました。また小田原北條三代氏康の名代として関東、奥州の大名に対する外交手腕も大いに発揮しました 。天正15年(1587)没73歳。
<玉縄城四代城主、北条氏繁>(1536〜1578)
玉縄城四代城主、北条氏繁は、黄八幡の英雄綱成の嫡男として天文5年(1536)生まれました。

綱成同様に豪勇の将として各地を転戦し永禄四年(1561)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の武蔵、 相模進出を迎え撃つため綱成が下総の有吉城に出陣するに際し、26歳の氏繁が玉縄城の城代になりました。
この年3月、景虎が上杉氏の名跡を受け継ぎ、関東管領の地位を名実ともに示さんと北条攻めを開始、 長尾砦を本陣に玉縄城の攻略に掛かります。(長尾台は上杉謙信先祖の地)城代として父の留守を 預かった氏繁は頑強にこれを防ぎ、謙信は玉縄城の大規模な外郭や砦に囲まれた防塁の守りを見て、 ついに決戦を回避、越後春日山に帰城しました。

氏繁は豪勇の人ですが、教養人でもありとくに絵画では 松の古木にとまる鷹の図が有名です。43歳没。

*氏繁の妻「七曲殿」の館は、現在の七曲坂の下「コープ鎌倉」の辺りにありました。 氏繁は夜ごと七曲坂を降りて「七曲殿」に通ったのでしょうか。 七曲殿がどんな女性だったのか、いまのところそれを伝える文献は見つかっていません。
<玉縄城五代城主、北条氏舜(うじきよ)(うじとし)>
玉縄城五代城主、北条氏舜については文書の残存率が低く、不明なことが多い。 (その分、伊東潤の小説、「家戦国鎌倉悲譚 剋」が代って推理してくれる)  ただ、氏繁のあとを継ぎ、玉縄城五代城主になったことは確かであり、天正五年〜八年に氏舜文書が残っている4年間が、 氏舜の玉縄城主の時代であることが分かるのみです。

むしろこれからの研究から北条氏舜の実像が見えてくるものと思われます。 今のところは不思議、未知の城主、それが玉縄城五代城主の北条氏舜です。
<玉縄城六代城主、北条氏勝>(1559〜1611)
玉縄城最後の城主、それは北条氏勝です。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し、 玉縄城は家康の軍勢に包囲されたものの力づくでは陥ちなかったので、家康は城主氏勝の 叔父大応寺の了達和尚に降参を進めさせ、ようやく開城させました。このように玉縄城は力づくでは 一度も陥ちることのなかった城です。こうして早雲が築き6代80年続いた玉縄城最後の城主が北条氏勝でした。

氏勝が玉縄城の六代城主になった頃は、武田信玄没後(天正元年1573没)の甲斐、信濃を巡って 北条氏政と徳川家康が対立し各地で戦いが起りました。

全国制覇を狙う豊臣氏の影響が北条氏領国に及び始め、 天正15年(1587)頃から戦時体制に入りました。天正18年(1590)の2月、氏勝は小田原の本拠を守るべく、 その前線の山中城に籠り、攻める秀吉側の総数およそ20万に兵力5千人で対峙、討ち死に覚悟で戦いましたが 半日で落城します。

自刃を押しとめた家臣18人と夜陰に紛れて脱出して玉縄城に帰りました。
徳川家康は、氏勝の人物を惜しみ、大長寺住職と氏勝が師と仰ぐ大応寺(龍寶寺) 了達和尚を使者に立て氏勝を説得し、 ついに天正18年4月21日、無血開城されました。

・・・従来の玉縄城無血開城についての歴史の説明はこれだけです。
しかし、このときの氏勝の辛い決断の念頭には、「民のための国づくり」という「早雲の祈り」があったはずです。 城と共に討ち死にするという武士の名誉より、「民のため」を優先したからこそ、玉縄城の無血開城があったのだと思われます。

その後氏勝は家康に臣下の礼をとり、 家康が江戸に下向すると1万石の大名になり下総岩富城の城主になります。
そして玉縄を離れた後の北条氏勝の秀でた国づくりの事績にも、早雲の精神が脈々と引き継がれていったことが感じられます。 「民のための国づくり」という「早雲の祈り」は玉縄北条6代の精神に深く息づいていたのです。


玉縄城址まちづくり会議
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